僕はユニクロを買わない

ファッション

別にユニクロの不買運動を展開したいわけではない。単に主義の問題なのだ。

と言いつつ、一貫性がない自分は、娘のためにホワイト・マウテニアリングとコラボしたユニクロのジャケットを買った。ただ、これも商品に感銘を受けた訳でなく、身近に売られたバーゲン商品の中で一番安かったからだ。自分の中ではH&Mより少し品質が良い、というのがユニクロなのでそれ程度の価格で売られていればよし、となる。

それでも、この商品を手に取って最初に驚いたのは、ジャケットの袖にダミーで張り付いているカフストラップのシャビーさだった。「本当にホワイト・マウンテニアリングの企画商品なのか?」と驚かされたが、考え方を変えれば子供がドジを踏んで引っ掛けるようなリアルカフをつけるよりも理にはかなっているかもしれない。それと同じ理由でフード調整用のドローコードも省いたのだろうと考えてもらえるだろうという言い訳じみた、造り手側の懐事情が見えた。中綿にレーヨンを混ぜて、ヒートテック的暖かさも考えられているし、世界展開した際には「ヴィスコーズ」表示とし、安物素材を隠す効果もあって一石二鳥だ。そう、レーヨンは日本では安物の素材でキュプラに劣る裏地の素材イメージだが、一度海外に出てヴィスコーズと呼ばれるとそれほど悪いイメージはなかったりする。

なんかそういうのが見え隠れすると、本当にがっかりだ。ユニクロは本当に服が好きな人は今や買わないだろうと思う。みんなが安心する制服とか同じ扱いだ。良くわかってない消費者を馬鹿にもしているだろう。かつてのJIS規格よりはマシだが、万人にフィットしやすいよう、かつ生地に無駄が出ないようなパターンで裁断されているところはあんまり変わっていない。動きづらさはストレッチ素材で誤魔かせるようになってるから、それでもよいのかもしれないが。僕は日本人のパタンナーが優秀なのを知っているので、そこが活かせない会社の服をほしいとは思わない。ユニクロのシルエットが映えないのはまさにその辺りにあると思う。パタンナーを優先してゆったりカットさせるべきパーツを無視して、利益を優先しているから。まあ、僕の間違った思い込みかもしれないが。

もともとユニクロは「ファスト・ファッション」というジャンルで、飽きたら捨てられる大量消費側にいた。だが、SDG’sがやかましい現在では「ライフウェア」なるコンセプトに生まれ変わっている。何だか、その変貌ぶりにも無理を感じる。猫も杓子もリサイクルでも良いんだけど、もっと他にうまいやり方があるよ。

まあ、こんな事を僕が書かなくとも「コロナ禍によるロックダウン」その他で世界中の人はもっと重要な事実に気づいてしまったか。「服ってそんなにいらなくね?」ってさ。だから、エコフレンドリーを標榜したってこれから中長期的に売上は減ってくよ、悪いけど。

ホワイトマウテにアリングには少し期待があったのだけど、結局の所、ユニクロと組んだのは自己矛盾の体現だったろうな。「市場には屈しない姿勢でのものづくり」がコンセプトならば「市場忖度」のユニクロと組むのは違う気がする。知らんけど…

他方、一般的な評価はネガティブだったかもしれないが、アディダスとのコラボは悪くはなかった。
素材のチョイスも、組み合わせ方も良かった。まあアディダスの方もウェアの内容としては「アウトドア側に近い」からだろう。素材も資金も潤沢にあるし、何せ「アディダス・ジャパン」は特に優秀だ。欧州のアディダス製品を常に手にとって比べられる僕が確信している事実だ。僕は日本に戻るたび、日本側で企画されているアディダス製品を買っていく。特に化繊の素材は欧州のアディダスでは太刀打ちできないような良品が多い。

そうだ、良品といえば無印良品だ。僕はユニクロは買わないが無印は買う。ユニクロより少し高いが、素材やパターンも遥かに僕好みであるし、バブル頃、日本が世界をぶっちぎっていた頃のノウハウが服のシルエットなどに「余裕」として投影されている。だから、着心地がいい。ただ機能素材を使えば良いというほど衣服は単純ではないと自分は感じていて、無印にはその見落としが少ないと思うのだ。

ユニクロは市場の合理性を追求した結果、「小綺麗、こざっぱりした衣料品をリーズナブルに買える」のに対して、無印の方は「グローバル化していく日本社会の中で何が日本的なものでどのような要素を日本的なものとして再解釈するか」に取り組んでいる。

さて、なんでこんなファッションの事を書いたかというと、これは少し自己紹介でもあるのだ。まだ、2回目だし。

僕はかつてファッション業界で生きていこうと考えていた時期がある。中学生での「イクシーズ」に始まり、そこから「Y’s」「イッセイミヤケ」「Men’sBigi」なんかを着て成長していった。少なくとも、二十歳くらいまではファッションには拘っていた。「外見で人を判断しないのは愚か者である」というオスカー・ワイルドの言葉こそ名言であると信じて疑わなかった。今やそんな考えは殆どないが。

さて、何を書きたかったのか。そう、ファッションの話だった。

僕が現在暮らしている地区の中に工業高校がある。同地区内は実は移民の少ない場所であり、そこだけが異質に映るくらいいだ。工業高校の生徒は殆どが移民で、アラブ系や黒人が8割くらいを締めている感じだ。彼らだが、その多くがGucciやプラダなど高級ブランドの帽子や靴、カバンを身につけている。「えー、欧州にいる移民たちってそんなにお金持ちなの?」って驚かれただろうか?いや、そういうわけじゃない。だけど、心意気とか見栄の問題なのだ。彼らは基本的に移民地区から地下鉄で登校してきており、切符を買わずに改札を飛び越えたり、緊急脱出用開閉ボタンを押すなどして通り抜ける者が結構いる。つまり、その程度困窮している人々なのである。だが、一部ブランドものを身に着けている。

これはどういうことなのか。これはバブル時代の日本を彷彿とさせる現象だ。つまり、貧富の差が拡大してしまうと、貧困層の人々は家や車に回せるお金がなくなる。富裕層は不動産を買い占め、値段は吊り上がるし、車もどんどん値上がりしていってローンであっても新車を買うのは難しくなる。そうすると、もう自分たちを誇示したり、差別化する要素は服装くらいしかなくなる。

僕はグッチやプラダ、あるいはヴィトンの帽子などを身に着けている少年たちを見かけるたびに、彼らの心情を察してみる。「僕はそこまで貧乏じゃないし、これから貧乏じゃないんだよ。」あるいは「僕は少なくともお洒落には気を使っているんだよ。そういう人間なのだよ。」そういう気持ちが痛いほど分かるのだ。僕もかつてはそっち側の人間だったから。バブルの頃日本は「1億総中流」などと呼ばれていたけど実はそんなことはなかった。その頃でも実際には明らかな格差が存在していた。ただ、人々は浮かれ、上昇志向でもあったのでその真実に目を向けず、お祭りに水を指すような事を述べる人はいなかった。僕がまさにその典型にハマっていたのだ。アルバイトしてでも、衣服はブランド物を身につけようとする輩だった。本当に富んでいる人はそんな事をしない。若い時の時間は貴重なので他の目的に充てるだろう。地方の公立高校に通っている時点で既に中流ではなかったのだ。

けれども、代わりに夢があった。いつの日か好きな服を選ぶのに値段に躊躇しなくてすむような人間になる。あるいはそういう服をリーズナブルにプロデュースして、「くすんだネズミ色の安っぽいスーツで項垂れながらつり革にもたれ掛かるサラリーマン(と会社員のこと当時は呼んでいた)達」の装いを変える。そういう気概があった。

両親が異国の母国語を話す移民の子供たちが学業で輝かしい成績を収めるのには相当な努力が必要だろう。国語にせよ、数学の文章題にせよ、高度な理解力が求められた時には常にハンディキャプを負う。そういう意味において欧州は階級固定されている。この点にはほとんど触れずに「欧州では富が適正に再分配されている」だの、「教育が無償なので公平」だのと述べているのは現実を知らない学者か、今や欧州の多くの国でマイノリティーとなりつつある(3世代以上前から自国にいるような)白人と結婚して、現実をほとんど知らない日本人だろう。

さて、教育の問題は別の機会に詳しく書くとして、僕は工業高校の生徒たちに対していつもこう思っている。

ブランド物に見合う自分を目指せ。いつも、そういうものを所持しようという心意気を捨てるなよ。あきらめるな、あきらめなければ必ず上にいける!

さて、今回のチョコはCorne Dynastie。コルネ一族はベルギーの名門だ。初代のエデュアール・コルネを継承する家族は6人だったが、そのうちの2名の系統がゴディヴァ系、ノイハウス系コルネ・ポールロワイヤルなどに別れるなどしているが、家族経営のアルチザン・チョコラティエ系を名乗るのがこのコルネ・ディナスティーで初代から5代目にあたる子孫が現在制作を任されている。
ベルギーのチョコはプラリネの出来が真骨頂だが、ここのプラリネは滑らかなカカオバターの仕上がりが持ち味だと感じた。まだ、さほど知られていないがチャンスがあれば賞味してみてほしい。
https://www.cornedynastie.com/

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