神の存在

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神はいるのだろうか?

多くの人が自分や他者に問いかけたことがあるだろう。

僕はこれまで無神論者だったし、現在もどの宗教にも肩入れしていないし、どこかの宗教に属したいとも思っていない。だが、「神がいるのか」という問いには「いるのではないか」という信条に落ちつきつつある。

これは僕にとっては大きな変化だ。しかも、この変化には長い時間を要した。僕は若いときから、多くの宗教が掲げる教義やスローガンに矛盾を感じていたし、今もそれは感じている。生命を尊重しろと謳う宗教のせいで多くの戦争がもたらされ、多くの生命が失われた事実。一神教なのに多神教のように、聖人やらなんやらが個別の国に担ぎ出されて守護神となり、同じ宗教内で争ったりしてきた。21世紀でもそれは繰り返されている。また、多神教や善悪の二元論、神の絶対性にも常に矛盾が存在する。
「神が絶対的な創造主ならなぜ世の中は不完全に満ちた問題で山積みとなっているのか」あるいは「神が絶対的な正義であるならば、何故気が長くなるほどの時間の経過の中で悪は根絶されていないのか」などといったテーマだ。

宗教はなぜ人を殺すのか 平和・救済・慈悲・戦争の原理 [ 正木晃 ]

僕は欧州にいて神を信じる人々についてこういった質問を時折投げかけてみたが、納得できるような答えを出してくれる人はいなかった。僕にとって神は「不在」だった。

不完全な生物

だが、今の年齢になってようやく過去に答えとして得ていたものの中に正解があったのだなと感じるようになった。それは「神は完全であるが、その完全さ故に不完全である生物をつくり、それを慈しむことを愛と捉えた」というものだ。若いときはこれはこれをただの詭弁だと捉えていた。そして、この説明をしてくれた人と袂を分かつことになった。でも、最近この説明に至る心情、真理と捉える考え方がようやく分かってきた。

僕が自身の両親をみて思う心情がまさにこれだ。僕は人生を突っ走ってきた。自分の両親は普通の人、あるいは苦にならない程度にしか努力をしない人で、自分たちの知る狭い範囲の親戚・知人の暮らしぶりを基準に自分の行動や価値観を形成していた。勿論、当時において彼らは彼らなりに頑張っていたし、彼らの周囲の人々も怠け者だったわけではなかった。生産性はともかく、会社に拘束されることも多かっただろう。それが昭和の時代で日本で普通に暮らすということだった。

だが、僕は中学生の時点で、両親よりも遥かに外の世界と接触していたし、外部から情報を得ようとアンテナを張り巡らせることに注力してもいた。雑誌や本を読み漁り、旅に出ることで、自分の両親の持つ尺度、価値判断の基準がいかに小さくくだらないものであったかをすぐに思い知った。傲慢な言い方をすれば、僕は早い段階で両親よりも賢くなってしまった。自分の親の論理や思考がいかに乏しい材料の中から生み出されてるかを知ってしまったのだ。そして、そういった狭い価値観の中で育っていくと自分はたいして成長しないこともすぐに分かった。僕は、可能な年齢になり次第アルバイトに精を出し、社会との接点を増やして見識を広げた。こうすることで、まだ高校生だった僕は瞬く間に大学生や社会人の知り合いを増やし、世の中がどのように回っているのかを理解していった。

「宿命」を生きる若者たち 格差と幸福をつなぐもの (岩波ブックレット 岩波ブックレット) [ 土井 隆義 ]

だが、自分の知的好奇心はここで留まった訳ではなかった。真面目に勉強して進学して、その結果として疲労困憊の表情を浮かべながら、もたれるように電車の吊り革を掴んでいるサラリーマン(昭和的にね)なんかになりたくはなかった。(実際のところは、異国の地下鉄のつり革に捕まりながら通勤するサラリーマンとなったわけだが(笑)

そして、それなりに努力や苦労を経て両親の年収の倍以上を稼ぐようになった。世間に溢れる情報の取捨選択の見極め、資産の増やし方、質素倹約・無駄排除等も身につけた。こうなってくると両親がなぜ貧乏ぐらしをしているのかもはっきり見えてくる。むしろ、やってはならない側にどっぷり使っているのが見える。そのくせそれを指摘すると、昭和の価値観からなのか「親に意見するな」、「自分たちの時代はこうで良かったのだからこれでいい」というような答えが必ず返ってくる。僕は結構親孝行な方である。お願いごとも比較的きいてあげている方だ。だが、親の方は自分の意見をきかない。それが親の威厳だと考えているのかもしれないし。我が子から問題点を指摘されると、自分の価値が減少するように思えるのかもしれない。つまり、間違ったまま不完全なままを貫こうとする人間の真髄がこんなところにもしっかり見える。

だからと言って僕は両親を憎んでいるわけでも嫌っているわけでもない。人として良いところが多々あり、基本的には善人だからだ。陰謀を張り巡らせるわけでもなく、戦争などで無抵抗な人々を攻撃しているわけでもない。温かく生きてきてその生き方は真っ当な方だと知っている。それで充分だ。

自分の親としては「不器用だな」「損しているな」と思う。まあ、正直言うと可哀想だとも感じる。これまでに僕の言う通りにしていればもっと楽ができていたはずだし、現在だって少しでも忠告を受け入れれば暮らしは改善されるだろうに、と。だが、自分たちのやりたいようにやってそれが「自由」、「幸せ」なのだと納得していればそれも一つの人生だろう。人が生きるという事はそんなものかもしれない。それが神が造った人間という生き物の存在意義だろう。

というわけで、人そのものが完璧には程遠いし、こんな調子では神の領域に入る前に多分絶滅するだろう。どんなに賢くなっても、なんらかのミスをしでかしてしまうようにできているのではなかろうか。だが、造った方でもそれは分かってやっているんじゃないか。最近、僕はそんな風に考えるようになった。

神は多分いる。それが、僕の出した結論だ。

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